小説『5年3組リョウタ組』に見る仕事と報酬の関係

小説『5年3組リョウタ組』に見る仕事と報酬の関係

はじめに

『5年3組リョウタ組』という石田衣良氏の小説をご存知だろうか?

新聞連載をしていたそうなので、もしかしたらリアルタイムに読んだ方もいるかもしれないし、単行本や文庫本を読んだ方もいるかもしれない。

小学校教師の中道良太先生と、彼が担任を受け持つクラスの生徒たちの成長物語です。

現代教育への批判や皮肉も詰まっており、読み物として面白く、また学ぶべき所も多いという良作。

ただし、1点だけ、私には聞き捨てならない記述があった。

「仕事のおまけの金銭、この世界ではすべてが逆立ちしてしまったようだった。」

金銭は仕事のおまけ?

聞き捨てならない。

小説の一節を取り出して小説全体を批判しようというのではない。

小説はとても面白く、深く学べる作品であるという前提の上で、少しだけ、この「仕事のおまけの金銭」について考えてみたい。

前後の文脈

実は↑で紹介した部分の前には、

「成長のおまけの成績」

というフレーズがある。

テストに向けて子供たちが自発的に学習を開始する、ただテストの点数ばかりを追い求め成績が芳しくない生徒を蔑ろにし始める。

そんな中での、この記述である。

生徒たちにとって、最も大切なのは成長することであって、成績は付随的なもの。

成績を先に追い求めてしまうのは、言わば目的と結果の逆転、順序が逆ではないのか、との皮肉りである。

教育というテーマで描かれた本作において、私は↑のフレーズに全く異論はない。

要は「成長」が大事であるし、「成績が良くなること=成長している」というわけでもないのだから。

月並みな言い方ではあるが、きっといつの時代においても教育を的確に言い表した、言い得て妙な表現であるに違いない。

仕事のおまけの金銭

では、「成長のおまけの成績」に続くフレーズとして、この「仕事のおまけの金銭」とは的確な表現なのか?

正直、時代に影響される所もあるのかな、とも。

表題の小説が単行本化されたのは2008年、不景気の真っ只中、誰もが暗い気持ちを抱えつつ働いてい時代でもあるだろう。

そんな折、報酬の高さだけで仕事の善し悪しを測ることは、良しとされなかったかもしれない。

しかし、何のために仕事をするのか、と問われれば、それはやはり「生きるため」である。

もしくは、家族を養うため、より豊かな生活をするため、とも言えるのかも。

いずれにせよ、「死ぬ気で働け、モーレツ社員」の時代は既に過去のものだ。

仕事のやりがいのみを追い求めて、如何に金銭が低かろうとやりたい仕事をやる、そういった志も結構だが、ライフの充実を求める昨今の情勢を見ればそぐわないとも言えそうだ。

金銭のおまけの仕事

では、この現代社会において「金銭のおまけの仕事」が正解かと問われれば、それではあまりにも寂しい。

ただ金銭が高いか低いかで仕事を選ぶのなんて、面白くも何ともない。

個人的に思うのは、誰もが価値を見出す仕事に関しては、それなりの金銭が見返りとして用意されなければならない、ということ。

多くの人が価値を見出す仕事であるのに、見返りの報酬があまりに低いのであれば、そこに手を出す人は馬鹿を見る。仕事は慈善事業ではないのだから。

きっと、「仕事の価値=金銭」である必要があるのだろう。

もちろん仕事の価値なんて個人の価値観であるから常に成立する等式ではないと思うが、少なくとも、多くの人が見出す仕事の価値の平均値と、金銭が大きく乖離してはいけないのだろう。

むすび

もちろん、↑の議論がキレイゴトであることは百も承知である。

例えば、誰もが見向きもしない仕事に対する報酬を限りなく下げていけば、誰もその仕事に就こうとしないはず。

そうなると、そのサービスが提供されないことにも繋がりかねないのだから。

ただ、ホリエモンがどれかの著書で言っていたことだが、そういう仕事はAIなんかがやるような時代が来るのだそう。

人間は価値ある仕事に従事し、価値のない仕事は自動化される時代が来るのだ。

うん、なるほど、そうなると必ずしも↑の議論はただのキレイゴトというわけでもないのかも。

このご時世は、金銭的報酬の低い仕事を無闇に選択する時代ではなく、金銭を仕事選択の1つの基準にしても良い時代。

少なくとも、仕事の評価軸に金銭を置く生き方も許される時代になっているように思う。

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